岸田さんは、日本の女子ラグビーの活動の母体となる日本女子ラグビーフットボール連盟を1988年に創設。女子がラグビーをすることもワールドカップという大会の存在も馴染みのない時代に、ワールドカップ出場への足掛かりを築き、その後も長きにわたって日本で女子ラグビーを牽引してきた。
1991年の第1回ワールドカップには、岸田さんは団長兼選手として日本チームを率いて出場。まだ招待大会だった当時、日本が出場にこぎ着けたのは、90年のニュージーランド遠征がきっかけだった。有志で参加していたクライストチャーチでのフェスティバル大会で、「来年、ワールドカップがあるらしい」と耳にしたことによる。
女子連盟発足から半年後には国内各地チームとの交流大会を始めていたが、国際試合はこのニュージーランド遠征が初めてという状況だった。だが、「ワールドカップがあるのなら行きましょう」と即決。帰国後すぐに主催者と連絡を取り、手続を進めた。
代表チームの編成にも直ちに着手。東京だけでなく名古屋など他地域のチームからも選手を集めたいと考えた。だが、急に決まった大会参加に仕事の都合や、全額自己負担という費用の問題、直前に勃発した湾岸戦争への懸念などもあって、メンバー編成には苦労した。コーチやドクターも休みが取れないために帯同できず、選手のみで海を渡った。同行していた旅行会社の添乗員が偶然にも大学ラグビー経験者だったことから、見かねて、臨時コーチとして協力してくれたという。
だが、当時は女子連盟が日本協会傘下ではなかったため、ユニフォームに日本代表を象徴する桜のエンブレムは付けられない。色だけでも同じにしようと、日本代表基調カラーの赤と白を使ったユニフォームを自分たちで作って大会に臨んだ。
忘れられない試合
記念すべき初のワールドカップの初戦で、しかし、日本はフランスに0-62で完敗した。
岸田さんはPRでプレー。だが、「開始早々にSHが負傷交代になり、続けて3番で組んでいた人も負傷して、『あら、あら、どうしましょう』という感じだった」という。大会年の年明けから毎週末の練習や連休を利用した合宿などを行なってきていたが、国際経験は無いに等しかった日本は、40分ハーフでの試合もこれが始めて。それまでは試合時間の取り決めもなく、日本国内では30分ハーフが主流だったという。
だが、岸田さんには2戦目のスウェーデン戦の方が忘れられない試合になった。
第1戦からスクラムなどのプレーが改善され、試合に入って岸田さんは「勝てないことはない」と感じていた。そして相手ゴール前でスクラムの機会。ボールを出せればトライに結びつく。だが、ボールは出せず、トライも獲れなかった。
「私のラグビー人生で一番後悔している試合」と今年71歳の岸田さんは振り返る。「あとちょっとというところで、もっとしっかり組んで押せばよかった。やはり、国際試合の経験の少なさだなと感じた」と振り返る。日本は0-20で敗れた。
その後、プール最下位でプレート部門にまわった日本はスペインと対戦したが、そこでも得点できずに0-32で敗れて、3戦全敗で初の世界大会を後にした。
結果は出なかったが、参加した意義は大きかったと岸田さんは言う。
「イングランド対アメリカの決勝を見てレベルの違いを痛感した。でも、女子でもあそこまで出来るということが分かって、参加した選手には刺激になったと思う」。帰国後、大会メンバーの一人がアメリカでプレーするために海へ渡ったという。
ワールドカップ初勝利へ
そこから、岸田さんたちの次の目標は1994年の第2回ワールドカップになった。
1回目と違って、大会までに準備時間も持てた。幸い、女子の競技者は少しずつ増えていた。岸田さんたちは、より良い代表チームを編成すべく選手セレクションを行ない、合宿も何回か実施した。選手たちも自主的に身体づくりに取り組んだ。練習では、選手同士で激しいやり取りを繰り返すことも多く、「納得がいくまでやったし、自分たちで考えてやることが多かった」と岸田さん。最終的に第2回大会へ選出されたメンバーには足の速い選手が増えた。コーチもドクターも日本での仕事を調整して、帯同してくれた。
1994年4月、スコットランドでの大会に臨んだ日本は、初戦で再びスウェーデンと対戦する。岸田さんたちは前回大会での手応えから、「今度は絶対に勝てる」と話していたという。日本は10-5で接戦をものにし、ワールドカップ初勝利を手にした。
第2戦で日本は準優勝したアメリカに大敗(0-121)したが、スウェーデン戦の1勝でプール2位になり、準々決勝に進出した。だがそこで、フランスと2大会連続で顔を合わせ、再び敗れた(0-99)。その後の順位決定戦でもカナダ(0-57)とアイルランド(3-11)に黒星を喫した。しかし、この大会で1勝を挙げたことで「次の大会も」とチームは意気込んでいだ。
ところが、第3回大会には出場資格が整わず、日本は出場できなかった。
第3回大会からIRB(国際ラグビー連盟=現ワールドラグビー)認可の大会になり、それまでの招待大会から、出場にテストマッチの実績が問われるようになった。だが、日本は出場資格の”international matches”の解釈に誤解があり、テストマッチを実施できず、条件を満たすことができなかった。
「あそこで続けて1998年にも出ていれば、その後のことがずいぶん違っていたと思う」と岸田さんは残念がる。ワールドカップに続けて出場することで見えてくるものがあると、実感しているからだ。
1998年、世界大会の代わりに日本はシアトルへ遠征して地元チームなどと試合を行った。ワールドカップへは日本は2002年の第4回大会で復帰し、ワールドカップ2勝目を挙げたが、同時に世界とのレベル差も痛感することになる。
日本は初戦で開催国スペインに0-62で「コテンパンにやられて」(岸田さん)、イタリアにも3-30の黒星。順位決定戦でオランダに37-3勝って、男子日本代表より先にワールドカップ2勝目を手にしたものの、最終順位は14位だった。
「このままではだめだ」
スペインとの試合で世界との差を痛感した岸田さんは、試合後すぐにコーチ陣で話し合い、世界との差を縮めるための模索を始めたのだった。(以下、Part 2へ続く)