ワールドラグビーは、11月にニュージーランドで開催されるワールドラグビー殿堂の特別イベント(チューダー提供)で、第1回女子ラグビーワールドカップを開催したパイオニア達や、近年のスタープレーヤー達を称えると発表しました。

デボラ・グリフィン(イングランド)、スー・ドリントン(イングランド)、アリス・D・クーパー(イングランド)、メアリー・フォーサイス(イングランド)、キャシー・フローレス(アメリカ)、フィアオオ・ファアマウシリ(ニュージーランド)の6人のレジェンド達が、11月5日にイーデンパークで行われるラグビーワールドカップ2021準決勝で表彰を受けます。

チューダーが提供するワールドラグビー殿堂は、キャリアを通じてラグビーゲームに顕著な貢献をした人々を表彰するとともに、ラグビーの精神である品位、情熱、結束、規律、尊重といった人格形成の価値を示します。

キャシー・フローレスは死後の殿堂入りとなりますが、グリフィン、ドリントン、クーパー、フォーサイス、ファアマウシリは、非公式のキャップ祝賀会に出席し、その後、準決勝2試合の間に、イーデンパークで表彰式が行われます。

ラグビーワールドカップ開催の年、2022年の殿堂入りに選ばれたテーマは「ウィメン・イン・ラグビー(ラグビー界の女性達)」。グリフィン、ドリントン、クーパー、フォーサイスの4人は、1991年にウェールズで開催された第1回女子ラグビーワールドカップ発足の原動力となったパイオニア達です。

昨年10月に亡くなったフローレスは、プレーヤーとして、またコーチとして、1991年のラグビーワールドカップで優勝を飾ったアメリカ代表チームの一員であり、その後2大会でのコーチも務めたパイオニアでもあります。

今回殿堂入りを果たす6人中最年少のファアマウシリは、ニュージーランド代表としてラグビーワールドカップに5回出場し、そのうち4回を優勝で飾っています。この元フッカーは、今年元チームメイトのケンドラ・コックスエッジにその記録を抜かれるまで、ブラックファーンズの最多キャッププレーヤーでした。

今回の6人の殿堂入りで、2006年の開始以来殿堂入りした人数は160人となりました。

殿堂入りを果たしているワールドラグビー会長、サー・ビル・ボーモントは次のように述べました。「今年の殿堂入りは、女子ラグビー界のパイオニアとして、また人々に感動を与える者として女子ラグビーの発展に多大な貢献をされた方々を称えることになり、特に格別なものとなるでしょう。」

「初の女子ラグビーワールドカップを立ち上げるために体制に挑戦した方々をはじめ、米国における女子ラグビー界の発展の先駆者、キャシー・フローレスや、ラグビーワールドカップに5回出場し、世界チャンピオンに輝いたラグビー界のレジェンド、フィアオ・ファマウシリなど、このスポーツの歴史に多大な貢献をしてきた人々ばかりです。そして、彼女たちのパイオニア精神によって、私たちは世界中のラグビー女子の知名度を高め、その発展とインパクトに加速をかけることができるでしょう。」

世界ラグビー殿堂入りを果たした仲間であり、殿堂入り選出委員会の委員長であるジョン・イールズも次のように述べました。「女子ラグビーを今日の地位に押し上げた人々の貢献を称えることはとても重要なことです。今日、世界ラグビー殿堂は、真のラグビーのパイオニア達と、女子ラグビーワールドカップの歴史における偉大な選手たちの貢献を称えるものです。これらの特別な女性たちに祝福と感謝を捧げます。」

世界ラグビー殿堂の詳細については、www.world.rugby/halloffameをご覧ください。

2022年世界ラグビー殿堂入り

No.155デボラ・グリフィン(イングランド)

No.156  スー・ドリントン(イングランド)

No.157 - アリス・D・クーパー(イングランド)

158位 - メアリー・フォーサイス(イングランド)

No.159 - キャシー・フローレス(アメリカ)

No.160 – フィアオオ・ファアマウシリ(ニュージーランド)

デボラ・グリフィン(イングランド)

世界ラグビー殿堂入り155番目

デボラ・グリフィンが初めてラグビーボールを手にしたのは、1978年、ユニバーシティカレッジ・ロンドンの学友たちとともに、ライバル校であるキングスカレッジに勝負を挑んだときのことでした。

その5年後、彼女は女子ラグビーフットボール協会(WRFU)の創設メンバーとなり、このアマチュア組織との関わりを通じて第1回女子ラグビーワールドカップ組織委員会の委員長に就任します。

グリフィンは、1990年1月、後に女子ラグビーワールドカップとなる大会の計画を発表します。仲間たちは非常に感銘を受け、彼女に組織委員会の委員長に就任するよう依頼。

リッチモンドのチームメイト、アリス・D・クーパー、スー・ドリントン、メアリー・フォーサイスの3人が加わり、この4人で開催都市や試合会場、そして宿泊施設や資金調達などに奔走。

あらゆる局面で挑戦状を投げつけられながらも前進し、グリフィンとフォーサイスは共に第一子を出産して母親となり、遂に1991年4月5日、開会式が行われ、12カ国の代表チームがカーディフに集まりました。そして翌日、南ウェールズ各地のグラウンドで開幕戦が行われました。

4月14日、カーディフ・アームズパークで行われた決勝戦でアメリカがイングランドを下して終了した第1回大会は、選手やサポーター、そしてメディアからも成功の評価を得ました。しかしグリフィンは、その後数ヶ月間、収支のバランスをとるため尽力します。

グリフィンは、大会後ラグビー運営から離れますが、2002年に復帰し、2005年にはRFUW委員長に就任。7年間その職務を果たしました。2010年、RWC 2010イングランド大会の開催に貢献したグリフィンは、RFU理事に就任し、2014年から2020年までRFU理事を務めました。

2018年には、ワールドラグビー理事会で初の女性代表の一人となり、歴史を刻みました。

スー・ドリントン(イングランド代表)

生年月日:1958年6月10日、米国ミネソタ州ワコニア出身

ワールドラグビー殿堂入り 156番目

 

米国ミネソタ州で育ったスー・ドリントンは、ランニング、乗馬、水上スキーなどを楽しむ熱心なスポーツウーマンでした。

しかし、1980年代初頭にラグビーを始めたことで、同じ志を持つ人たちのコミュニティーに出会えたと言っています。

楕円球のラグビーに熱中した彼女は、1983年、より競争力の高いラグビーを求めてロンドンに移住します。フィンチリーでデボラ・グリフィンやメアリー・フォーサイスに出会い、リッチモンドではアリス・D・クーパーに出会いました。

慈善団体で資金調達の仕事をしていたドリントンは、スポンサー契約やコマーシャル契約の経験が豊富でした。第1回女子ラグビーワールドカップの計画に取り掛かったとき、グリフィンが商業マネージャーに選んだのは当然、ドリントンでした。

この頃センターからフッカーに転向していたドリントンは、グレートブリテンとイングランド両方の代表としてテストマッチに参加していました。

ドリントンは、組織委員会での役割をこなすと同時に、RWC 1991では先発フッカーとしてイングランド代表に入ることを目指しました。このように2足の草鞋で奮闘していた彼女は、カーディフにいるイングランド代表チームのために、無料の宿泊施設を用意することができました。

グリフィンの娘、ビクトリアちゃんの子守を任されたドリントンは、大会の公式開会式には出席できませんでしたが、翌日、スワンジーで行われたスペイン戦では願い通り、先発フッカーに起用されました。

1991年4月14日、カーディフ・アームズパークで行われた決勝戦で母国アメリカに19-6で敗れましたが、大会での全試合でスタメンでのポジションを獲得しています。

ドリントンは、3年後のRWC 1994で、キャプテンとしてスコットランド戦に臨みました。しかしイングランドがディフェンディングチャンピオンの米国を38-23で下した決勝戦ではプレーしていません。1997年に最後のテストマッチでプレーした後も、リッチモンドのために優秀な成績を残し続け、クラブの歴史の中で30年以上リッチモンドを代表する唯一のプレーヤーとなりました。ファーストチームのポジションを守り、欠場したのは1試合だけでした。先日、ドリントンはリッチモンドのオールタイム・ドリームチームに選ばれました。

ドリントンはまた、リッチモンド初の女性副会長でもありました。

アリス・D・クーパー(イングランド)

スコットランド、エジンバラ出身

世界ラグビー殿堂入り 157番目

 

アリス・D・クーパーがラグビーを始めたのは、偶然のきっかけでした。1986年10月、リッチモンドで夜遊びをしていた彼女は、最近できたばかりの女子チームの2人に出会い、彼女のような背の高いプレーヤーが必要だと言われたのです。

クーパーは、長い間ラグビーに興味を持っていました。叔父のフィリップはミドルセックスのキャプテンを務め、ロスリン・パークの代表選手でした。また、ボーイフレンドがプレーするラグビーの試合では、よくタッチラインで観戦していました。

そして10日後、彼女は古いラクロスブーツを引っ張り出し、リッチモンドでの最初のトレーニングセッションに参加しますが、そこでデボラ・グリフィン、スー・ドリントン、メアリー・フォーサイスと出会うことになります。

その身長が功を奏してフォワードとしての才を発揮したクーパーは、イングランド南東部の代表選手となります。ただ、イングランド代表の候補となり、後にスコットランド代表選考にも挑戦しましたが、国際試合の舞台に立つチャンスは訪れませんでした。

グリフィンが第1回女子ラグビーワールドカップの計画を立て始めた頃、「ラグビーワールド&ポスト」誌で女子ラグビーに関する署名入りコラムを執筆していたクーパーが大会のプレスオフィサーに選ばれたのは当然のことでした。彼女は、この大会開催までに数え切れないほどの時間を費やして、大会のメディア報道を盛り上げました。

女子ラグビーワールドカップの期間中、クーパーはウェールズ国立スポーツセンターの窓のない部屋にいることが多く、彼女はその部屋を「バンカー」と呼んでいました。彼女はここで、チームシートやマッチレポートを作成したり、プログラムの印刷を手配したり、ジャーナリストからの電話に対応したりしました。また、組織委員会とボランティアで構成した即席チームに参加し、ロシア代表と対戦して敗退するというユニークな経験も味わっています。

大会後、クーパーはWRFUのプレスオフィサーを務めますが、リッチモンドセブンズチームのキャプテンとして出場した試合で足を骨折し、1993年にプレーヤーとしてのキャリアに終止符を打ちました。

 

メアリー・フォーサイス(イングランド)

世界ラグビー殿堂入り  158番目

 

アメリカ・ピッツバーグのスポーツ好きな大家族に生まれたメアリー・フォーサイスは、活発な子供時代を過ごし、高校では陸上競技の有望選手となりました。

1977年にペンシルベニア州立大学に入学したフォーサイスでしたが、学費を稼ぐためにアルバイトをしなくてはならず、大学の代表選手になる夢は絶たれました。

幸いなことに、ちょうど女子ラグビーチームが設立されたことを知り、ランニングスパイクからブーツに履き替えます。

その後4年間、ペンシルベニア州立大学チームの選手として活躍し、ピッツバーグに帰ってもラグビーを続けました。1985年、仕事の関係で英国に渡り、ロンドンのフィンチリーに住むことになります。イングランド初の女子ラグビークラブから数メートルのところに住み、そこでデボラ・グリフィンとスー・ドリントンに出会うことになります。

翌年、フォーサイスはチームメイトとともにフィンチリーからリッチモンドに移り、後に会計士の資格を活かして新しいクラブの財務を整備することになります。また、1988年のスウェーデン戦でイングランド代表に選ばれ、1回だけキャップを獲得しています。

グリフィンが、第1回女子ラグビーワールドカップの財務責任者をフォーサイスに依頼したのは、あまりにも当然でした。

第1回女子ラグビーワールドカップ組織委員会の会合の多くは、当時フォーサイスが働いていたロンドン中心部のオフィスの役員室で行われました。

大会が始まる7日前、フォーサイスは第一子となるキャサリンちゃんを出産し、決勝戦の週末までカーディフには行けませんでしたが、イーリングの自宅から現地にいるグリフィンやアリス・D・クーパーにメッセージを伝えるなど、運営上での役割を果たしました。

 

キャシー・フローレス(米国)

生年月日:1955年2月7日 米国フィラデルフィア出身

死去:2021年10月21日 米国ロードアイランド州

世界ラグビー殿堂入り 159番目

 

キャシー・フローレスは、才能あるプレーヤーであり、先駆的なコーチとして、米国のラグビー界に多大な貢献をしました。

1978年、フロリダ州立大学で23歳のときにラグビーを始めたフローレスはすぐに、男性中心だったラグビーにおける女性の唱導者となり、またナンバー8としてピッチ上で優れた成績を収めました。

1987年11月に行われたカナダ戦でキャプテンを務めたフローレスは、22-3の勝利に貢献し、その後40年間、66歳で亡くなるまで、ラグビーの代名詞的存在であり続けました。

1991年にカーディフで開催された第1回女子ラグビーワールドカップでは、女子イーグルスのメンバーとして決勝戦でイングランドを19-6で破り、3年後の第2回ラグビーワールドカップでは、フランカーとフッカーとして出場しました。

1998年に選手として引退したものの、ラグビーワールドカップとの関係は続き、2006年と2010年の大会では女子イーグルスのコーチを務め、5位入賞を果たしました。彼女は、女性として、また有色人種として初めて代表チームを率いた人物です。

フローレスは、カリフォルニアのクラブ、バークレー・オールブルースでも同様にプレーヤーからコーチへと転身を遂げ、1994年から2010年まで11回の全米選手権のタイトルを獲得しました。2014年には、米国初の大学代表プログラムの一環としてブラウン大学のヘッドコーチに就任しました。

2021年10月、1年間のがんとの闘いの末、ロードアイランド州プロビデンスで逝去。フローレスは、最愛のチームメイト、コーチ、指導者、友人として、また男女平等と女性のラグビー参加における断固たる擁護者として知られています。

 

フィアオオ・ファアマウシリ(ニュージーランド代表)

生年月日:1980年9月30日、サモア・アピア出身

世界ラグビー殿堂入り160番目

 

世界ラグビー界で最も強力なフッカーの一人として知られるファアオ・ファアマウシリは、ニュージーランド代表として5回のラグビーワールドカップに出場し、ブラックファーンズの元チームメイト、アナ・リチャーズの記録に並ぶ活躍を見せました。

RWC 2002バルセロナ大会では、36-3で勝利したオーストラリア戦で初キャップを手にしたファアマウシリは、RWC 2017でブラックファーンズ初の50テスト出場を果たし、2022年6月にケンドラ・コックスエッジに抜かれるまで57テスト出場の最多キャップ選手としての権威を持っていました。

ファアマウシリは2012年にキャプテンに任命され、ラグビーワールドカップ2017での優勝を含め、34回にわたってブラックファーンズを率い、2002年、2006年、2010年、2014年大会でもプレーし、そのうちの最初の3大会でニュージーランドの優勝に貢献しています。

常に模範を示し、プロ意識の高さと献身という意味で大きな推進力となったファアマウシリが黒いジャージを着ていた期間の大半は、ブラックファーンズが首位を貫いていました。ファアマウシリは2018年11月、フランス戦で最後のトライを決めて勝利し、引退しました。

国際ラグビーから引退した年、ファアマウシリはニュージーランド功労勲章を受章し、3年ぶり2度目のワールドラグビー女子15人制年間最優秀選手賞にもノミネートされました。

国代表プレーヤーとしての16年間のキャリアを通じて、ファアマウシリはオークランドのカウンティ・マヌカウ地区で警察官として勤務しながら、同時にラグビーフィールドで106回以上、同州の代表として活躍しました。オークランドに在籍している間、彼女は15もの国内タイトルを獲得しました。

ファアマウシリは2020年12月にワールドラグビー女子15人制チーム・オブ・ザ・ディケイドのフッカーに選ばれ、その1年後にはオークランドラグビー史上初の女性会長に選出されました。